BUYER’S SELECT

畑を纏(まと)うスーツ――〈The Ludic Game〉に恋した夜

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薄曇りの午後、英国北部の産業都市を離れ、幹線道路から外れた倉庫街へハンドルを切った。

舗装の割れ目に溜まった雨水を跳ねつつ、ナビに示された番地に到着すると、鈍い金属音を立ててシャッターが開く。


奥には服飾史の“忘れられた時間”が詰まっていた。ディーラーが差し出した埃っぽいハンガー。

そこに掛かっていたのが、ジョン・ガリアーノのファースト・ショーピース「The Ludic Game」スーツだった。



一着と出会うまでの“間”

倉庫の蛍光灯では生地の起伏が眠っている。


「外へ持ち出していい?」と尋ね、曇天の下へ一歩。薄い日差しが当たるや否や、グリーンのグリッドと白いモヘアが浮き立ち、スクエアの畝が“耕された畑”の遠景へ変わった。

耳を澄ませば、風に揺れる麦の音さえ聞こえてきそうだ。胸の奥が、カチッ──と何かに噛み合う。買い付けの現場では理屈よりも早く、こうして心拍が答えを出す。



1985年3月18日、ロンドン・オリンピアの熱狂

思い返せば、このスーツが歩いたランウェイも劇的だった。


セントマ卒業後初の本格ショーは夕方と夜の二回公演。

モデルが観客に魚を投げつけ、ファッション批評家スージー・メンケスの膝に命中したという逸話まで残る。


ガリアーノは〈服は演劇の一幕〉であることを、誰よりも早く知っていたのだろう。舞台装置としての衣服、その核心に触れた瞬間だった。



テキスタイルの“視差”

布は英リントン社製ウール×モヘア。

緯糸に走る毛足が光を散らし、距離によって表情を変える。


遠景では幾何学、至近距離では畝──


まさに“視差”のテキスタイルだ。


ガリアーノ本人が「畑を空撮したようだ」と語り、生地高騰を承知で採用したというエピソードも頷ける。

ボタンは鹿角を削り出し、素朴さで高揚を中和する。大仰になり過ぎない匙加減に、英国仕込みのユーモアが宿る。



端正と過激の狭間

シルエットはダブルブレストのショートジャケットにテーパード・パンツ。

肩線を大胆に落とし、袖と裾は断ち切りでフリンジを残す。

のちのデコントラクションほど破壊的ではないが、実験精神の芽が確かに覗く。

着ると軽い。


裏地を最小限に削ぎ、〈重い物語を軽やかに纏う〉という逆説を成立させている。袖を通した瞬間に分かる“初期のガリアーノ”特有の妙味だ。



なぜ、いま手放せないのか

・物語の原点を凝縮

魚投げパフォーマンスまでも含め“遊戯=Ludic”の精神を着地させたコンセプトピース。


・視覚トリックを仕込んだ布

光と距離で表情を変えるツイードは、見る者を“ゲーム”へ招き入れる装置そのもの。


・市場にほぼ出回らない

ファーストショーのフルセットは一桁台の現存と推定。2024年12月に£11,700で落札された事例が示す通り、需要>供給が続く。



買い付けの瞬間──“腹の底”が返事をする

ディーラーは値付けを口にしたが、内心ではすでに答えが出ていた。


試しに腕を通し、鏡の前へ立つ。胸板から腹部にかけてふっと空気が入る独特のゆとり。

英国紳士服の格を感じさせつつ、どこか少年の遊び心も孕む。

“これを逃したら二度と会えない”──

そんな直感に、仕入れの経験年数は関係ない。買い付けとは、最終的には身体と記憶で決める作業だ。



所有することは“語り部”になること

このスーツは単なる所有物ではなく、語りを要請してくる。


テキスタイル研究、80年代ロンドンカルチャー、デザイナー論―

どこから糸を引いても学びが立ち上がる。


保管は湿度40〜50%、紫外線を90%カットしたLEDライト、ハンガーは幅広のウッド。

きちんと手を掛け次世代へ手渡すなら、博物館級の資料としてさらなる価値を帯びるだろう。


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